己は何を表現せんとするか

秋深し 己は何を する人ぞ


太です。

明日(今日)は遂にオーディション。みなさん準備はよろしいでしょうか。



さて、オーディションなどといっても、さも偉そうな言葉を後輩に吐き連ねるだけの僕ですが、一体何を考えればギターは上達するのでしょうか。
上手な演奏とはいかなるものでしょうか。


答えは無数にあり、また特定の正解も無いのでしょうが、
「自分の音を聴く」
ということを実現できると、音楽がまた一つ楽しくなるのだと思います。




先日読んだ高校の教科書に、こんなことが書いてありました。


芸術とは自己を実現するための、純粋な営みである、と。


その文章は能楽を中心とした芸術論(特に世阿弥を取り上げている)でしたが、僕が解釈する限りでは、これはギターの演奏にも敷衍できそうな論です。以下、概要です。


  ◇◇◇


そもそも能をはじめとする舞台芸術、演劇というのは、自分と観客、二つの視点が存在する。

はじめは自分の視点で自分を見ることに精一杯だが、それでは自分の注意しようとしている部分以外は油断しているのであり、はたから見れば不完全なものである。

しかし、ここに観客の視点を導入することで、自分自身を客観的且つ全体的に見るという意識が持てる。例えば、普通自分では目にすることの出来ない背後からの姿をも意識することで、たとえ観客に背を向けている瞬間であろうと、その姿が完全に演技された姿として具現するのである。

その意識を研鑽していけば、いずれは他人から見ても一部の空きも無い演技ができるようになる。




そしてこの観客の視点というのは、己の欠点を浮き彫りにもする。

【自らの理想とする姿】と【観客から見えているであろう姿】とを重ねて見ようとすれば、自ずと自分にかけている部分、有り余っている部分が見えてくるからである。

そこで演劇というのは、観客の視点を借りて、理想の自分をより純粋な形で希求しようとする営みとなるのである。

そしてそれが現実ではなく、飽くまで「演じる」という行為の中で行われる限りにおいて、純粋な「自己実現」となるのである。


  ◇◇◇



ふむふむ。

うまく表現できていないところも有るかもしれないけれど、大方このようなことが書いてあった気がします。



最後のほうになると少し話がややこしくなるのですが、例えば
「ニヒルダンディーな男」
を理想として演じる場合、その役者がたとえ現実世界で「ニヒルダンディー」な人物でなくたって、演技を見ているうちに、観客(あるいは自分自身)はその役者の演じようとしている理想の姿(言うなればイデア)を垣間見ることができるということです。





ギターの演奏でも、よく「自分の音を聴け」と言いますが、要するに客観的な視点を持ち、そこから自分の理想と現実のギャップを認識した上で、理想的な演奏を目指せ、ということを言いたくてこの言葉が使われているのでしょう。





他人からの視点が無い演奏は自己満足に陥り、欠点を欠点とも認識しないままになる。

理想的な形が希薄な演奏は欠点ばかりを意識してしまい、何をどう直していいのか分からない。





この二つが相互補完的に働いてこそ、「良い音楽」ができていくのだと思います。



舞台の上では、完全無欠の理想形を表出できると良いですね。









ふぅ。疲れた。


おやすみなさい。